2014/08
石見銀山を訪ねる君川 治


【産業遺産探訪  1 】



龍源寺間歩 銀鉱石を採掘した坑道約500mを見学できる。



清水谷精錬所跡 




大森の町並み 約1km続く古い町並みで、重要伝統的建築群保存地区に指定されている。奉行役宅や豪商などの旧居が保存されている。



石見銀山世界遺産センター 世界遺産に登録された「石見銀山とその文化的景観」を案内する展示説明館。銀鉱石を採掘、精選して銀塊にする工程をビジュアルに説明してくれる。
























[参考資料]
銀鉱山王国 石見銀山 遠藤浩巳
                       新泉社(2013)
石見銀山  別冊太陽
             平凡社(2007)    
 

鉱山王国日本
 日本は資源小国とのイメージがあるが、マルコポーロの東方見聞録では日本は黄金の国と紹介されている。日本は世界有数の金産出国であり、16世紀にはシルバーラッシュと云われたほど銀を生産した。その代表が石見銀山であった。
 金属資源として一般的なのは金・銀・銅・鉄であるが、日本では古くから石見銀山、生野銀山、佐渡金山、別子銅山、小坂銅山、足尾銅山などが知られている。徳川幕府はこれらの鉱山の多くを直轄領として管理し、財政基盤を強固にして支配体制を確立したと云われている。
 やがて時の経過と共に優良鉱脈を掘りつくし、産出量は減少した。明治維新後、近代的な鉱山技術によって産出量は一時的に復活したが、現在は金・銀・銅・鉄・アルミニュームなど、全てを海外に依存する、文字通り資源小国となっている。


石見銀山を訪ねる
 4月の最後の週に60年に一度の大遷宮の成った出雲大社にお参りし、その足を延ばして世界遺産石見銀山を訪れた。
 事前に石見銀山について調べたが、概要は良く分からないので先ず「石見銀山世界遺産センター」を訪ねた。ここは世界遺産の一部ではなく、石見銀山を知るために設けられた展示説明施設であった。この展示を見ると世界遺産の全体像が分かるが、これまで見てきた世界文化遺産、例えば法隆寺や古都京都、姫路城や平泉などと異なり、多くは遺跡・史跡である。
 今回、見ることができたのは、大森地区の重要伝統的建築群保存地区の町並み、銀鉱石を採掘した龍源寺間歩(まぶ 坑道)、精錬所跡であった。
 大森の町並みは約1kmに亘って昔の家が続いている。代官所跡には表門と長屋門が残っており、建物は明治時代に役所として使用されたもので、現在は石見銀山史料館として活用されている。奉行の役宅旧河島家、豪商旧熊谷家などの建物も公開されている。山里としては珍しいが、産業遺産に直接結びつくものではない。
 仙ノ山の麓にある龍源寺間歩は銀山公園から坂道を歩いて45分の所にあった。入口に案内所があり、約500mの坑道は案内も無く自由に見学できる。天井の高さは気を付けないと頭をぶつけるぐらいで、手掘りの坑道である。
 龍源寺間歩から戻る途中に精錬所跡があった。山の斜面に続く段々畑のような平坦な地面は、精練所や住居を作った跡と云うが素人には判らない。
 もう一つ、仙ノ山の奥深くに大久保間歩がある。こちらは説明者が案内するコースで、訪問した日曜日は休業日で見学できなかった。この大久保間歩の付近は昔の鉱山町を発掘調査した場所で、精錬所跡の遺構などがあるようだ。


石見銀山の概要
 石見銀山は16世紀に博多商人神屋寿禎が開発を手掛け、灰吹法を導入して生産量を増やした。戦国の茶人神屋宗湛は寿禎の曾孫である。
 仙ノ山から採掘される銀鉱石は銀の含有量が多く、“福石”と呼ばれて戦国大名の争奪の的となる。大内、尼子、小笠原、毛利の手に渡り、豊臣を経て徳川幕府の直轄領となる。
 徳川家康は大久保長安を石見銀山奉行に任命し、慶長7年には年間15トンの銀を生産するほどのシルバーラッシュを来たして、日本は世界の3分の1を生産して輸出したと言う。
 当時の石見銀山の人口はおよそ20万人、家屋は1万5000軒を越えていたが、幕末には生産量が220s程にまで減少した。明治になって長州の藤田伝三郎が近代工法を導入して、開発を引き継ぐが生産量は伸びず、一時期は銅の生産をするものの、昭和の始めに閉山となった。
 樹木に覆われた仙ノ山は1988年から発掘調査が始められ、モノ作りの実態が少しずつ明らかになってきた。露頭堀跡が51ヶ所、坑道跡が583ヶ所も見つかった。当時はタガネとカナヅチによる手掘り作業で、道具類も発掘で見つかっている。
 世界遺産への登録はこの石見銀山地区の他に、鉱山争いをした山城跡、輸出港の温泉津の町、港へ銀鉱石を運ぶ街道筋が含まれる。


当時の生産技術
 金属の生産は、採鉱⇒選鉱⇒製錬⇒精錬により家内工業的分業で行われた。選鉱は鉱石を砕いて粗選別し、細かく砕いて水の中で比重選別を行った。製錬により金属部分を取り出し、精錬により不純物を除いて目的の金属・銀を生産する。
 石見銀山で導入された灰吹法は中国から朝鮮を経由して伝えられた精錬工法で、溶融した鉱石に銀と親和性の高い鉛を加えて、銀・鉛合金を作る。この合金は貴鉛と云われた。この貴鉛を灰の上で溶融すると融点328℃の鉛が先に溶けて灰の下に沈み、融点962℃の銀が灰の上に残る。この出来上がった銀が灰吹銀である。
 これらの作業は屋内作業で、坑道近くには整地された職住一体型の建物遺構が発掘されている。精練所跡からは炉跡や使用された鉄鍋が発掘された。このように石見銀山は発掘調査による遺産群である。発掘調査の成果物は生産遺構の他、福石、貴鉛、灰吹銀、灰吹鍋と言われている。
 この銀生産手法は奉行大久保長安によって進められた。大久保はその後佐渡金山奉行、伊豆金山奉行も兼務して鉱山開発手法を横展開した。
 金・銀・銅に関する世界遺産は石見銀山も含めて14ヶ所ある。金山はブラジル、スペインの3件、銀山がボリビア、メキシコ、ドイツ、スロバキア、チェコ、日本の7件、銅山はノルウエー、スウェーデン、イギリス、チリの4件ある。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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